これから世界観を作ります!:まずはプロフィールにもなっていない自分語りから

目次
1:幼稚園~小学校時代
2:中学校時代
3ー1:高校時代
3ー2:美術予備校時代
4ー1:大学時代前半
4ー2:大学時代後半
5:Uターン
6:大学院時代
7:終わりに

 

 

 

 

1:幼稚園~小学校時代

 

1991年に生まれ、小学校に入る前までは茨城県や埼玉県で過ごし、とにかくカブトムシやクワガタなどの甲虫と恐竜が好きでした。図鑑が好きで暇さえあれば眺め、名前と特徴を覚えるといったような比較的インドアな少年だったと思います。

 

その後、佐賀県に引っ越し、地域の公立小学校に入学しました。

 

最初の頃は方言でクラスメイトが何を言っているのわからないといった状況がしばらく続きました。九州の雰囲気に馴染めなかったこともあり、仲のよい友達も2、3人程度しかおらず、基本的に図書室にいて、本と漫画を読み漁る生活を送っていました。(確か6年間の読書量1位とかで表彰された記憶が…)ドッジボールやサッカーは苦手でした…。

 

学年が少しずつ上がるとともに外でも遊ぶようになり、田舎ならではの魚取りや虫取りなどを楽しんでいました。

 

その頃ゲームとも出会い、よくポケモンパワプロ、無双系をしてました。

 

学校以外では習い事によく通っていました。


1年生から火曜日に絵画教室、金曜日に水泳教室、

3年生から木・土曜日に剣道教室と、6年まで真面目に続けていました。

 

 

 


2:中学校時代

 

中学受験に失敗した私はそのまま地元の公立中学校に通うことになりました。


しかし、不幸なことにそこは当時県内でも荒れていると言われていた中学校。

ご想像通り、飲酒、喫煙、校舎破壊、校内暴力、性行為、放火などが日常茶飯事で行われているような学校でした。

 

私は、そのような中でも粛々と勉強と部活に励んでいるようなタイプ学生でした。

部活は剣道部に入り、毎朝5:30からの朝練と午後練、上下関係も厳しく顧問や先輩からもミッチリしごかれるといったなかなかハードな環境でした。

 

1年の秋からレギュラー入りし、市で3位程度の成績を収めていました。部長で大将でした。

 

ハードな部活のおかげで小学校の頃はデブだった私も、クラス対抗の代表リレーに選ばれるぐらいに足が速くなり(小学校では女の子と同じくらいのスピードだった)、力も強くなり(握力60kg(参考:中学男子平均25~35kg))体格も変わっていきました。

 

中学2年生の初め頃に所持品にいたずらや、物を投げられるなどターゲットになりかけた時期がありましたが、一度だけガチギレてボコボコに返り討ちにして以降、そのような連中から何かされることはありませんでした。

 

学内ではまともに授業にならなかったため塾に通って勉強をしていました。中学の連中よりも塾で出会う他校の学生と気があったので私にとっては居心地の良い環境でした。ともに勉強できる友人と出会え、そこそこ頑張れたので学校での成績も常に学年で1~5位をキープできるようになっていき、通知表もほぼオール5でした。

 

で、人生初めての「プチモテ期」が来ました。
恋愛の話は別の機会にしたいと思います。

 

 

 

 

3-1:高校時代

 

進学先は県内の進学校か県外の高等工業専門学校か迷った挙句結局、県立の進学校に通いました。


偏差値は高くありませんが藩校の流れを組む、所謂名門と言われるS高校でした。

 

そこで人生初めて、大きな挫折を味わいました。

 

みんな勉強ができるんです。

中学で成績トップだった私は、高校の学年320人中、常に310番台。

 

 

まさに井の中の蛙が大海を知った瞬間でした。

 

 

今まで真面目に生きて来た私は、高校でも真面目に剣道部に入って部活には真剣に取り組んだものの、その他の面ではこの頃から少し変わり始めました。

 

授業中、常に寝るようになりました。

 

自習中、ゲームをするようになりました。

 

中間テストや期末テストを真面目に受けないようになりました。

 

ひどい時にはテストを途中で抜けてゲーセンやカラオケや映画に行くようになりました。

 

弁当と財布だけ持って学校に行くようになりました。

 

夏の補講にも出席せず、学祭にも参加しなくなりました。

 

Youtubeやニコ動、2chに入り浸る生活も始まりました。

 

部活だけは一生懸命取り組みました。30人以上の部員の中からレギュラーは5人でしたが、1年の秋からレギュラー入りし、弱小校だったチームを九州各地の強豪校が集まる大会でベスト8になるまでレベルを上げました。(インハイでは準々決勝で全国優勝校と当たり、良い結果が残せませんでした)

 

3年の夏で部活も引退し、いよいよ進路選択の時期になりました。


1学期終わりの担当との面談で「この成績でどこにいくんだ?」と、

見せられた私の通知表は、

 

 

_人人人人_
> オール2 <
 ̄Y^Y^Y^Y ̄

(5段階評価)

 

 


しかしよく見ると、その中には3つの「5」がありました。

 

1つ目は「現代文」
小さい頃から本を読んでいたせいか、授業を聞かずに感覚で解いても点数が取れていました。しっかり勉強しないといけない古文・漢文は悲惨なものでしたが…。

 

2つ目は「体育」
高校に入って本格的に体幹を鍛え、握力は70kg (高校男子平均40~42kg)、ベンチプレスは90kg(https://bodix.jp/5232によると、高校生平均は25~35kgらしいです)を上げられるようになり、パワーを使う大体の競技は得意でした。

 

3つ目は「美術」
美術!?と思いましたが、なんだかんだで小学校6年間絵画教室に通っていたおかげか苦手ではなかったのです。

 

私は、得意なことを活かして大学入試を受けようと考え、進学先を調べ始めました。
探す中で最優先したことは

 

『東京の大学であること』

 

でした。

 

 

どうしても東京に行きたかったんです。

 

一生九州で生活するであろう友人もいる中、私の中でそれは考えられませんでした。

 

そうなると受けることのできる大学の候補も絞られてきます。

・関東の大学
・科目数が少なく受験できる大学
・得意なことを深められる大学

 

しかし、ここで問題が発生することとなります。

 

「科目数が少なく受験」という条件を満たすには、
・少ない科目数(国・英)がものすごく得意であること
・推薦の場合、内申や素行が良いこと
・大会や発表会での成績が優秀であること


が求められており、まるで私は当てはまらない学生なのです。

(超一流の選手でもなければ、学内での成績も素行も悪い。こんなヤツ、高校の代表として推薦できないのは当たり前ですよね…。)

 

軽量入試もダメ、スポーツ推薦もダメ、ではどうするか…

 

 

「美術」…やってみるか…

 


そうして福岡の美術予備校の門を叩くこととなりました。

 

 

 

 

3-2:美術予備校時代

 

高校の美術の先生の紹介もあり、F学院を訪れ、デッサン、油絵、日本画、粘土、デザイン等を一通り体験しました。

 

驚いたのはクオリティの高さと教室の熱気です。


それはもういままで絵画教室や学校の美術の授業では体験したことのない空気感でした。


シン…とした中で聞こえる、

鉛筆の「カリカリッ」「シャッシャッ」という音、

筆をバケツで洗う音、

水粘土をこねる音、

 

静かな教室の中で制作に対する熱を初めて感じた瞬間でもありました。

 

17年間の人生で味わったことのなかった別世界の空気感に圧倒され、さらにこの世界を深く知りたいとも思い、美大を目指すことに決めました。

 

 

で、専攻は?

 

 

特にその時点で「これを極めたい!」というのはなかったんです。

アートとデザインの違いはおろか表現についても全く理解していないような私は、とりあえず「デザイン」を専攻することに決めました。

 

理由は「デザイナーってなんだかカッコ良さそう」という考えと、何より予備校のデザイン専攻の先輩たちが、おしゃれでかっこよくてイケてる人ばかりだったんです。

 

17歳の夏、私はデザインの道に向かって進み始めることにしました。


しかし、問題になってくるのが高校との両立です。

 

時間的にどうするの…?

 


3年生は7:30~18:00まで授業があります。

 

 

 

次の日、高校の職員室で「先生!俺美大に行きます!」と宣言し、熱意?を伝えました。

 

素行が悪かった自分に対して学年の先生たちは、高校に行きながらも予備校に通えるように、私専用のカリキュラムの準備と16:00以降の補講の免除をしてくれました。


寛大ですね。

 

昼は高校、夜は福岡で予備校というハードなスケジュールでした。


休日は予備校に缶詰で、朝6:00に行って、終バスで佐賀に帰るといった生活を続けていました。

 

進路は、T芸大、T美大、M美大の3つに絞り対策を始めました。

結果的には唯一合格したT美大に現役で進学することになりました。

 

そして佐賀での生活が1度終わりを迎え、12年ぶりの関東、東京での新しい生活が始まりました。

 

 

 

 

4−3:大学時代

 

で、東京に来たはいいものの、
大学1年で御察しの通り、遊びまくるんですね。

 

クラブイベント入り浸り(RIP、ヤスタカ、Perfume系のイベントによく行ってました)、ナンパ合宿、オフ会、当時メインSNSであったmixiで出会いまくり(わざわざ茨城や群馬まで行ったり1ヶ月家に帰らなかったり反省してます)…。

 

遊んでばっかいると悪い知り合いもできるわけで、そんな連中から紆余曲折あって●●団まがいの超ブラック派遣会社を紹介されて、2年頑張れば社長にしてもらえるとか言われ、ネズミ講のようなバイト始めるわけです。まだ東京来て2ヶ月の6,7月の話でした。

 

まぁ2ヶ月間、20連勤とかもあり、色々なことさせられてましたね(笑)
毎朝5:00出勤で24:00仕事終わり、その後謎の付き合いで飲み会、ボーリング、ダーツ、ビリヤードに連れて行かれ家に帰る頃には4:00。
(派遣バイトへの勧誘、イベント設営、マンホールのゴミ取り、ホスト・キャバクラのキャッチ、ティッシュ配り、引越し屋、掃除屋、ひたすら野菜を切る仕事…)

 

 

前期終わった8月に気づいたんですね、俺がやってることは絶対におかしいと。

 

夏休みはブラックバイトもバックれ、フェードアウトし、家で独りで物事を考える時間が増えました。
(所謂モラトリアムです。アートってなんだろう~。デザインってなんだろう~。俺はどうして生きてるんだろう~。何をする為に生まれたんだろう~。どういう人間になりたいんだろう~。)

 

そんな中、ある地域活性化イベントと出会いました。

 

どうやら若者が用賀という街の地域を盛り上げる為に頑張っている『YSF』というインカレの学生団体とのこと。たまたまその中にM美大に行った先輩の知り合いがいたこともあってボランティアとして活動に参加することになりました。

 

高校時代、まともに学祭に参加していなかった私にとってそれが楽しい楽しい、クラブイベントとかとはまた違った楽しさがあるんですよね。


後期からは真面目に勉強と制作に集中するようになりました。

ホワイトな仕事を探し、地元の小学校で学童指導員とデザイン会社でバイトを始めたり…。


特にこの期間はフリー、大手広告代理店、大手メーカーのデザイナーさんとの出会いや、デザイン会社で社長の鞄持ちのようなバイト(この頃デザイン会社で制作の仕事するにはまだスキルが足りませんでした(苦笑))をしてたこともあり、デザインに携わる様々な方のデザイン観を学ぶこともできました。人格形成のモラトリアムの時期にすごく大切な経験になったと思います。

 


mixiの使い方は相変わらずでしたが、
2年になった4月、あるメッセージが届きました。

 

「去年YSFでお世話になった者ですけど、去年は当日スタッフありがとうございました。今年は企画スタッフとして参加してみませんか?◯月◯日に説明会しますのでどうぞ~」

 

1年生の8月にお手伝いしたイベントのスタッフからお誘いがありました。

 

勧誘系に疑心暗鬼になっていた私は恐る恐る参加することにしました。

 

この時、私とまちづくり・地域活性化の分野との出会いになり、そこで先輩や後輩にも恵まれました。このころの繋がりは今も続いています。

 

2年の前半からは「大学とバイト先でデザインを学び、学生団体でまちづくりし、ネットで出会い」といった良い循環ができ、キャンパスライフも落ち着いてきました。twitterfacebookを始めたのもこの頃だったと思います。

 

 

 


4ー2:大学時代後半

 

3年になって「広告・マーケティング」分野のゼミに入り、インターンや就活も意識し始めることになりました。

 

学生団体も先輩が抜け、責任も重くなりました。
大手企業の社会人OBがメンターとしてついてクオリティや納期についてもシビアになり、活動もハードなものでした。
地域の小学校にお手伝いや、地元のお祭りに参加することと並行して、企画や制作物を形にしていく力はこの環境で相当養われたと思います。それに加えインターンやバイトもあるわけですから、7~8月は本当に寝られませんでした。自分のスキルがまだまだ低かったせいもありますね。1年次にブラック企業で働いていた頃の記憶がたまにフラッシュバックしてました(笑)

 

就活に関しては頑固にも大手広告代理店のDとHの2社しか受けないと決めていました。

 


結果、見事に落ちました。

 


Dは最終選考まで残ったんですが、Hは学内選考の時点で弾かれ、ADからのフィードバックでは「代理店は向いてないかもしれないよ」とまで言われましたね。


で、そのまま将来を考えることから目を背けるように、後先考えず、目の前の活動に全力で取り組むようになりました。


4年の最終学年になり、ご縁があったコンサルティング会社から長期インターンのお誘いがあったため、そこでお世話になりました。そのタイミングで3年続けた学童指導員とデザイン会社を辞めました。(ここでもいろいろな経験と学びがあったので色々書きたいんですが別の機会に)


単純に新しい分野に挑戦してみたかったことと、ものすごく給料が良かったんですね。

 

会社のバイト代+都からの事業補助金みたいなものが出ていたらしく、インターンのくせに大手企業の新卒より月にもらえていたんです。

 

業務内容は、主に名刺や会社案内等デザイン業務、コンサル資料作成などのアシスタント業務でした。


その時から私についてもらったメンターは、元々軍事兵器を担当していた商社マンであり、何より今まで出会ったことのないほどの人格者でした。

 

一部上場企業の役員達に対してコンサルしている姿を見ながら「こんなスーパーマンみたいな人が本当に存在するんだなぁ…」と思ってましたね。同時に、インターン期間中にこの人から学べるものはなんでも学びたいと思い意欲的に業務に取り組んでいました。


引き続き、まちづくりにも取り組んでいたんですが、4年も続けているうちにある疑問が湧いてきたんですね。

 

「地域ってイベントだけで活性化するの?てか、地域活性化ってなんだっけ?」

 

今まで情熱と独学だけで取り組んできていたこともあり、「まちづくり」や「地域活性化」についての知識も何もなかったわけです。

 

デザイン以外に学術的に学びたいと思える分野になりました。


4年生になってもまともに就職するのかどうなのかと、進路も決まっていなかった私ですが、漠然と「まちづくりや地域活性化について学びたい」という想いはありました。

 

知人の紹介もあり、卒業後はコンサル会社のインターンを続けながら茨城にあるT大学の研究室で復興事業や商店街振興事業などの実践を踏まえた研究活動に携わっていました。同時に用賀の学生団体の方で5年目の活動を続けてもいました。

 

しかし、ここで実家の母から連絡が入ります。

 

「祖母がもう長くない」と。

 

 

 

 

5:Uターン

 

悩みました。

 

「このまま関東で研究やプロジェクトを続けても行きたいし…」

 

「祖母のもとに行って自分の学生時代を過ごした佐賀のまちづくりをしたい気持ちもあるし…」

 

私は初孫でもあり、大変祖父母からは可愛がってもらいました。

また、中高生時代気にも留めなかった佐賀のことも気になります。

 

 

「東京にはいつでも帰れる。ばあちゃんのそばにいよう。」

 

 

私は5年ぶりに佐賀に戻ることにしました。

 

結局、関東でできた繋がりやプロジェクトもすべて置いて来てしまったので、0からの生活が始まりました。

 

とりあえず地元の企業に就職し、仕事を始めることになったのですが、配属先は営業部。


内容自体は新規の案件をとることに躍起になったり、売上目標達成に対してものすごくシビアというわけでもなく、既存のお客さん周りがメインでルーティンワークをこなすような業務内容でした。

 

 

毎日がコピーのコピーのコピーのコピーの………………….

 

 


しかし、突如私の業務内容が変わりました。

 

 

_人人人人_
> 社長秘書 <
 ̄Y^Y^Y^Y ̄

 

 

途中からは営業ではなく、社長の相談相手のような役割に変わりました。


その頃、「地方創生」が始まったこともあり、私がまちづくりや地域活性化に取り組んで来たことが気になっていたようです。


社長のスケジュールを管理して、アポを取って、ついて周って国会議員や自治体の首長、他の会社の社長とお会いするような立場になっていました。

 


しかし…

 


事情もあって詳しいことは言えませんが、わかりやすくお話ししますと、
その後社内政治に巻き込まれ、新卒一年目の私が干されます。

 


で、結局一年で退職してアカデミックな世界に戻ることとなります。

 

この年の秋、子と孫に見守られて祖母は息を引き取りました。

 

 

 


6:修士時代

 

まちづくりや地域活性化への情熱は捨てられず大学院に入り、修士社会学の研究をすることにしました。


ぺーぺーですが、ありがたいことに2つの地域から地域プロジェクトアドバイザーのお仕事の依頼があり、


実践と学術的な面の両輪で2年間研究を続け、修士号を取ることができました。


大学では卒業制作の提出で良かったものが、専門も変わり、社会学や地域学の基礎知識から始め、先行研究をサーベイし、課題を見つけてまとめ、実践を踏まえて研究し、自分の論文を作っていくという作業はなかなかハードでしたね。

 

そして現在は地域アドバイザーの契約も終わり、企業でインハウスのデザイナーをしながら博士課程で研究をつ助けております。

 

なんだかまとまりのないmixi日記のようなってしまいましたが、私が26年で歩んできたおおまかな軌跡です。恋愛とか、自殺をしようとしたこととか、海外に行ったこととか、アイドルオタやってたこととか、ディズニー行きまくってたこととか、地域活性化・地方創生が嫌いになった話とか、色々な話題もあるんですけど、それは別の機会にでも。

 

 

 


7:終わりに

 

26になっても軸が曖昧で、なんとなくデザインの仕事しながら、なんとなく博士課程で研究を続けている訳ですが、この記事でわかる通り、私はいままで人のお手伝いがメインの生き方をして来ました。

 

それなりに専門的な知識もあり、それを生かす手段を知って実践している人たちとそれなりに接してきたにもかかわらず、私自身から社会に対してコンテンツを提供できるようなことはしてこなかったのです。

 

その部分が私の弱みの1つであるなと、このところ感じるようになりました。

 

 

そんな中今回、クレメア氏のnote

note.mu

に触発されたので、これを機会に私の世界観を構築していきたいと思い、このブロクを立ち上げました。

 

このような文章を書くことに慣れていないため、見苦しいとは思いますが、今回の自分語りで少しでも私に興味を持ち、今後も本ブログにお付き合いしてきたいただけると幸いです。

 

 

ではまた次回!